ヘドロ

妄想と暴論

「生きていてごめんなさい」という救いのない言葉

 

それは攻撃をしていいという合図であるし、
それがより強くなっていくだけだからである。



最初から生きていることが悪いことだと思うものはいない。

赤ん坊が大声で泣くのは主張から始まっている。
お腹が空いたとか、うんちが出そうとか、誰もいなくて不安だとか。
それを何とかしてもらいたくて泣いている。生きることを主張し続けている。
だから、人間は最初に生きていることが悪いとは思っていない。
その前に生きていることについて考えることすらしていないだろうけど。

人は目の前を学習するから、それを何度も繰り返すことで
自分が生きていることが悪いことだと学ぶ時がある。
そう思うことは自由であるが、大抵与えられた情報に基づいて判断した結果なので
そう思わされているという方が正しいだろう。
最初から生きていることが申し訳ないとは思わないのだから。
勝手に思い、思わされている。

一定数の人は、弱いものと判断したものを攻撃していいものだと学んでいる。
弱いから救いたい、という考え方と
弱いから攻撃していい、という考え方と、人には色んな考え方がある。
ただ基本的に攻撃が有利である。
同じだけの救いたいと同じだけの攻撃していいであれば圧倒的に攻撃が有利である。
攻撃で傷ついたものを救うという過程においても
攻撃されたという事実は物理的な損傷や精神的な記憶に残るからだ。
救いでこれを無かったことにする為には多くの労力や時間を要する。
ほんの少しの攻撃と多くの救いでやっとバランスが取れるかどうかだ。

生きていてごめんなさいは弱いものと判断されることが多い。
謝っているからである。
何か問題があるから謝っている人間なのだと判断される可能性がある。
正しいかどうかではなく、これは一種のプログラムのようなものである。
そうなると、弱いものは攻撃していいという考え方の人にとってはカモである。
発する側は学びの結果思わされた「生きていてごめんなさい」に対してさらに攻撃を受けることになる。
そしてその攻撃によってまた「生きていてごめんなさい」と学習する。
より強くそう思っていくことになる。
だからより弱いものとなって攻撃を受ける。
このダメージが蓄積すれば生きていてごめんなさい所ではなく、最悪の場合死に至るのだろう。

ダメージを受けている側にとっては辛いことの積み重ねかもしれないが
見る人から見ればそれは弱いものがただ当たり前の結果を受けただけと考える。
弱いものが私は弱いものですと主張して攻撃を受け続けているだけである。
もしその「生きていてごめんなさい」が「助けて欲しい」であったとしてもその意味は伝わらない。
私は弱いものですと喋っているようにしか伝わらないからだ。
だから、そこに救いはない。
そんな悲しいことは世の中にありふれている。

○○であれば攻撃していいと思っている人間が一定数いる限り
その○○に該当していると思われる発言や行動をするのはリスクでしかない。
そしてその自由な考え方は制限されることはないし、
攻撃することが競争に有利である以上減ることは決して無いはずである。

だから自分がどんなに辛くても、何か余程大きな企みでも持っていない限り
自分自身が攻撃していいと思われるような対象であると主張することは避けた方が賢明なのであろうと思う。
また自分が弱いものであると、そう思わされないようにすることも大切なのであろう。
例えそれがどんなにその通りであったとしてもである。